父の脳梗塞
父が脳梗塞の病を得て、二拠点生活を始めた。父は歩けるが、脳に高次機能障害があり、運転×、料理×なので、頻回にお世話に行っている。父のところから在宅勤務で仕事もさせてもらい、忙しくはあるが、配食サービスも活用して父との日々を過ごしている。
父は目の前にあるもの、出された食事を食べるとか、TVを観るとか、決められた曜日にデイサービスでリハビリをするとかはできる。けれど近い将来⚪︎⚪︎ができるように、いま△△をするというのが苦手になった。食事のあとで「これからやりたいことってないの?」と聞いてみたが、「クルマの運転ができないのが(ショックだ)…」以外にはないと言う。(免許は返納してしまったのだ。)やりたいことがあれば実現に向けて、いろいろ動いてみようと思ったのだが。
いまを生きる
それで思うようになったのが、冒頭の『いまを生きる』だ。父はいまあるものにフォーカスして生きている、懸命に。
そんなことを思うようになり、30年以上前の映画『いまを生きる』を観直してみた。故ロビン・ウィリアムスの傑作だ。(原題は『Dead Poets Society』 “死せる詩人の会”。劇中に出てくる“Seize The Day”の方を邦題に採用している)。未来ある若者の群像劇で、衝撃と感動の映画だった。
そこでまた思った。「いまを生きる」とは、いい悪いじゃないなと。単なる生き方だ。父はそういう生き方になったにすぎない。前出の質問の続きで、「孫に会いたいとかは(希望に)ないの?」とも聞いたのだが、返事はなかった。それでももちろん、TV電話で自宅とつなぐと、孫に呼びかけたりはしている。関心がないわけじゃなく、想像ができないのかなと思っている。
そんなことを念頭に、『Timer 世界の秘密と光の見つけ方』(白石一文著の近刊)を読み始めると、序盤で次の文に行き当たった。ちょっと長いが引用する。「動物はいま(だけ)を生きているーーとよく言われる。彼らはただ、真っ直ぐに与えられた生命を燃焼させる。(中略) 彼らは、俺は虎だ、俺は羊だ、と決して思わない。それどころか俺は雄だ、わたしは雌だと思うことさえない。犬は犬を、猫は猫をただひたすらに生きる。自分が犬だとも、猫だとも知らずに。」
また『いま(だけ)を生きる』に行き当たった。引き寄せだろうか、興味深い。父はただひたすらに生きている。
私はふだん会社員として過ごしている。そこではあるべき姿(To Be)に向かって、現状(As Is)にバックキャストして目標達成していこう、と頻りに言われる。なので自分はどうありたいかを年中考えている。大谷翔平にもあやかり、目標達成シートも書き始めた。
どのように『いまを生きる』か考えて、父との日々を過ごしたい。
「To be, or not to be, that is the question.」(シェイクスピアの戯曲 ハムレットより)
(終わり)
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